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短歌作品(2020年9月) [短歌]

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予感

唐突に雨降りはじめずぶ濡れのわれ点描の画のなか独り

あんぐりと口開け見つむその先に百日紅はあり花盛りなり

アグネスの声うわずれどその声は打ち消されずに大都にとどく

帝国へのみち着実に歩みゆく習近平《シー ジンピン》の顔このごろ険し

アドルフの自死のち七十五年余に現れ消えるタイラントらは

運命の尽きし顔つき髭面はサッダーム・フセインその外になし

独裁者の支配およばぬ生のありCOVID-19世界を総べる

「灼熱の後、激雨」とう天気予報のあり得るこの世

ラ・ヴァルス聴き終え外は静かなり知らぬ間に止む薄闇の雨

リピートの続くみゆきに眠られず常軌逸する気候変動

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地方圏における差別の実相 [日記]

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尾道でのホリエモン事件、そのエピソードをもとにした所感の二つ目を書きたい。それは、地方圏における根深い差別意識である。

新型コロナウイルスの感染拡大は、当然のことながら人口が多く人口密度も高い大都市圏が中心だったといえる。4〜5月の緊急事態宣言発令時は、東京でも平日のオフィス街、土日祝日の繁華街から人影が消えた。ロックダウンという形はとらなかったが、人々の協力のもとで人と人との接触を極力、避け、山場を乗り切った。

感染者の数の数でいえば、現在、第2波の終わりであり、非常事態宣言がとうに解除された今、この場に至っても首都圏からの来訪者を忌避する人々が地方圏には存在するのだ。ホリエモンが「出ていけ」といわれたのは、そうした首都圏からの来訪者は店に入れたくないという意識を店主、従業員が持っていたからに違いない。

かくいう私も、夏前に鳥取県の某自治体の職員、及び主要産業である水産加工業の役員から、「仕事でも来ないでほしい」とメールでいわれた。政府から自治体に予算が出る事業において私は、自治体にアドバイスをする役割を与えられていて、例年なら二度は当該の自治体に出向いてきた。報酬の少ない国の事業で、いわば社会貢献のつもりで取り組んできた。

しかし今年度は、コロナ渦、出張ができず、しかも同自治体のIT化が極めて遅れていて、最近、デフォルトで使われるようになったZOOMでの会議もできず、その打開策すら打ち出されないままに、企画だけがメールで送られてきた。隣県の先進地域の視察であったが、私自身もこの目で見たいと関心を示すと、スケジュールが決まっていないにもかかわらず、「来ないでほしい」といわれた。

その理由は、市内の水産加工会社で感染者が出て、それが外国人労働者であるとするデマが市内に広まっているからだという。それと私の訪問がどうつながるかが即座に理解ができなかったが、要するに首都圏に居住し働く者と接することで、新たなデマのたねになりやしないかという心配からであった。

本来であれば、行政が市内に溢れるデマを人権上の問題として取り上げ、強く否定する役割を果たさなければならないところだが、そうしたことはせず、率先して他地域居住者の来訪、あるいは接触がデマの原因になるという理由で、国の業務遂行を拒否したのである。

ホリエモンがどのような目的で尾道を訪れたか知らないが、私が国の事業で仕事をしようにも、補助金を得る側の自治体でそのような忌避の姿勢を頑なに崩さないのは誠におかしなことだ。率先して人権意識の啓蒙に取り組まなければならない自治体職員が、差別的なメールを送ってくるという事態、深刻に受け止めざるを得ない。

私は、事業担当の中央官庁の担当者に話をして、厳重注意を要請し、謝罪のメールが当該自治体担当者から届いたが、私自身、それを許すつもりは毛頭ない。

周知の通り、居住地による差別といえば、部落差別がある。平成28年に施行された「部落差別の解消を推進する法律」では、いまなお部落差別が存在していることが明記されている。首都圏に住んでいるとその実相は見えにくいが、地方圏ではいまだに被差別部落の地区が特定され、特別視されている。その習いが、コロナ渦で表面化したといえるのだろう。あまり考えることなく、自身が住む場所と異なる人々を忌避する差別意識だ。

「あそこに住むものはダメだ」という意識を私のような首都圏在住者は普通、持たないものだが、地方圏では、あたかも居住地自体が合理的な判断の基準のようにされているのかもしれない。

ホリエモンほどの有名人ならば、どこから来たかはすぐに分かる。一般人でも、少し会話をしただけでよそ者だと分かるだろう。「そういう客は要らない」「仕事だろうが、来るな」という言葉が発せられる状況は、地方圏に未だ残る部落差別の文脈から理解するほかない。

私の高校の大先輩に、今井正という映画監督がいた。住井すゑ原作の「橋のない川」を映画化したことで有名だが、高校時代、学校の講堂で観た「橋のない川」が私の人権意識の原点となっている。地方圏では、そういう教育がなされてきたのだろうか。ただただ、懸念を深めるばかりである。
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コロナ渦、Bグルメの時代終焉 [グルメ]

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ホリエモンが4連休で訪れた広島・尾道で不快な思いをしたという。食べログあたりで評判の良い餃子店に入ろうとしたら、ホリエモンの連れの一人がマスクをしていなかったということで入店を拒否された。ホリエモンが、「店内で食事をするとき、どのような状態までマスクをしなければならないのか」と質したら、「マスクしないとだめ」(従業員)、「面倒くさい客は要らない」(店主)とちゃんと答えないまま怒りだし切れたという。従業員も店主もホリエモンだと分かってのことらしい。

そこで、このエピソードをもとに二つのことを書いてみたい。

一つ目は、学校教育についてである。日本では、戦後の義務教育は効率性が重視され、兎にも角にも知識を詰め込む教育に偏重していた。それは今もあまり変わっていないといえる。ゆえに、ついて行けない児童、生徒は、学習意欲を失う。その結果として、中等教育でも学力がつかないまま、もちろん高等教育を受けることはできなくなる。

そうなると、まず頭で考えいろいろ試行錯誤をして、円滑な人間関係を築きながらする仕事には就けないことになる。公務員でも企業人でもサラリーマンになれば良いといっているわけではないが、そうした世界では、知識に裏付けされた合理的な言動が多かれ少なかれ求められる。

それを体得するトレーニングの場は、残念なことに、日本の義務教育ではほとんど用意されていない。ようやく大学に入って、アクティブラーニングなどのメソッドで体験できるようになるが、そこで最も鍛えられるのが、教授や同級生の説明を理解する能力、そしてそれに対して自分の意見を説明する能力なのである。

件の餃子店に限らず、街で飲食関係の生業に就いている人たちには、そうしたトレーーニングの機会は与えられることなく齢を重ねている人が少なからず存在する。それが日本の社会の実態であり、少なくとも東大卒業のホリエモンは、そのことを理解していなかったというそしりは免れないだろう。理由を質し合理的な答を得ること自体、街の飲食店では時間の無駄であり、さっさとその場を立ち去ればよかったのである。

そこまで私が言い切るのは、コロナ以前であるが、まったく同じ経験をしていたからである。その時は、パン屋の駐車スペースの使い方を巡ってであった。自宅から歩いて行けるところなので、ほとんど徒歩で行っていたのだが、「店頭に書かれている張り紙の趣旨が分からないので教えてほしい。クルマで出かけた帰りに寄ることもあるので...」と普通に質問したら、パン屋の店主がとたんに切れた。いかにも職人という寡黙な男だったが、怖いほどの勢いだった。その店には3年通って常連となっていたから、気安く質問をしてみたのだが、全く合理的な説明は聞かれず、「帰れ」と怒鳴り散らした。ホリエモンは一見だったが、私は年間10万円近く、その店に商品の代金を払ってきた常連である。

私の友人に、東京・神楽坂で三つ星の和食料理店の店主をしている男がいる。彼は、高校卒業後、ふるさと新潟を飛び出して、あてもなく東京にやってきて、近くの喫茶店で働きはじめ、そこで調理の面白さを知ったという。彼は、「特に和食でなくても良かった。食べて行ければ...」と修行の道に入ったのだが、彼はその世界で必要な腕だけではなく、目や嗅覚、味覚にとびきり優れていて、日本を代表する店の店主までに上り詰めた。

しかし、彼のような成功例となれば、飲食の世界では、砂の中に一粒という確率だろう。高等教育を受けられず、理解能力も説明能力も鍛えられないままに、手に職をつけるとなると飲食店で調理し提供したり、調理した料理、食品を販売したりするのが手っ取り早いということだ。そのことは、まさに彼から教わった。しかし世はB級、C級グルメの時代である。彼のように修行などしなくても、炭水化物と油をふんだんに使うものなら、よほど手を抜かない限り客はつく。

尾道の餃子店の店主に限らず、人気のラーメン店もその類いである。そしてそうした店の店主には、こだわりの強い人は多く、それが人気の源泉となる。そのことは理解できるのだが、客に対して説明できず、感情にまかせて怒鳴り飛ばす輩が多いとなると、コロナ渦、そうした店は自然淘汰された方が良いのではないかとすら思ってしまう。

何しろ客はお金を払って食べるのだから、気持ちよく食べたいものだ。店主に怒鳴られてまで食べるレベルではない店が食べログで持ち上げられていることにも不審の念を増すばかりである。そういう風上に置けないような輩が店主をしている店を持ち上げないように、ユーザーも心してコメントしてほしいものである。

タグ:ホリエモン
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菅新総理とのつながり [日記]

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今日午後、菅政権が発足する。衆議院議員の任期があと1年余という、いつ解散が行われてもおかしくない時期での発足、コロナ渦での政治の季節到来である。

新総理の菅氏は、秋田の出身だが、同じ苗字の秋田出身者に菅礼之助という経済人がいた。東京電力の会長として経団連の評議員会議長も務めた。その人物と新総理は、遠戚だという。ウィキペディアによれば、礼之助の出身地は雄勝郡秋ノ宮村であり、まさに新総理と同郷である。

礼之助は、鉱山経営に生涯を捧げた企業経営者であり、政府の石炭庁長官や石炭を発電に使う東京電力会長も務めた。そういう人物を遠縁に持つのだから、新総理は片田舎の農家の家を飛び出し、東京で一旗揚げたというだけの成り上がり者だとするのは誤りなのかもしれない。菅新総理は、地方の名家出身といえる存在なのかもしれない。

私の前職は、経団連の事務局員であるが、そこにも菅(すが)という人がいた。私が入局した1980年には、もう鬼籍に入っていて、仕事をご一緒できなかったが、その菅氏は菅礼之助のご子息だったということだ。

私は、菅氏の薫陶を受けた事務局の大先輩たちにしごかれ、また取り立ててもらったが、大先輩たちが、「すがさんは、人格者で洞察力も素晴らしく、知見も深かった」と繰り返し話していた。そこで私は、「すがって、どういう字ですか?」と聞き返したことがあった。

民主党政権の菅直人総理は、「かん」である。歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』の菅丞相、菅秀才は、もちろん「かん」であり、どうやら西日本では、「菅」を「かん」と呼ぶ苗字が多いようだ。「菅」で「すが」と読む苗字の人がいると、私は当時、知らなかったわけだ。

その菅新総理が頭角を現したのは、自民党の行革本部事務局長に就いた頃だと思う。その頃、私は自民党本部内にあった事務局長室に日参していた。もちろん、菅礼之助、そのご子息と遠戚があるなど知らないままにお話ししていたのは、誠に不覚だった。

そういえば、現在のひとつ前の経団連会館は、菅礼之助が募金委員長となり資金を集めて建設されたものである。私はあの経団連会館が好きだったので、その意味でも菅さんには頭が上がらない。
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総裁選挙の行方 [日記]

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自民党の総裁選に立候補した三氏は、それぞれの方法で現職議員や党員、さらには国民への訴えかけを強めている。一番、目を引いたのは、石破氏の任天堂の人気ゲームソフト「あつまれ どうぶつの森」の活用だろう。任天堂の規約により、それは叶わなかったが、なかなか面白い取り組みだ。

そもそも、政治への関心が急速に弱まっている現状を考えると、誰もが関心を寄せるゲームで政治の世界を見せていくことは、決して悪いことではない。石破氏がクリエーターの力を使ってiPhone用ゲームをつくり、公開していたらどうなっていたか、みなダウンロードしたかもしれない。

岸田氏は、やはり総理の器ではないことがはっきりしたように思う。政策の提示が歴代の政調会長経験者のなかでも下位に位置するレベルである。自身の政策構想を打ち出すことはなく、上がってきたものをまとめる調整型の政調会長である。それで人口減少社会での処方箋は描けない。

さて菅氏であるが、もう決まりなのであろう。J.M.ケインズのいうところの美人投票によるメリットを議員が感じ始めためか、既に議員票の7割を固めたという。大臣適齢期の議員には大臣が、また若手には副大臣や政務官が派閥均等に分け与えられるならば、自民党政権は盤石になる、そのことを菅氏は極めて的確に理解している。

それは官僚の人事にもいえる。家内から、「あなたが官僚なら、誰が良いの?」と聞かれたので、即座に「菅さんでしょう。仕えれば、報われるから」と答えた。民間人でも、そうした人心掌握術は参考にすべきだろう。

しかし、政策は安倍踏襲だけではないところが菅流である。その点、国民は驚いてはいけない。既に、消費税引き上げに言及しているが、菅氏はリアリストである。ある意味、安倍現総理・総裁とは正反対の組み立て方で政策を組んでいくに違いない。安倍のように、夢で政策は語らない。

それを突き詰めていけば、かつての小泉政権のような改革が行われるやもしれず、私たちはそれに驚いてはいけないのである。
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菅義偉という人 [日記]

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新しい自民党総裁、すなわち日本の総理大臣が来週、決まる。久方ぶりに東北出身の総理大臣が誕生しそうな情勢だ。菅義偉氏の選挙区は、横浜である。しかし、その風貌、発話のイントネーションから、横浜出身ではないことは容易に分かる。

秋田県湯沢近くの農家の生まれ、長男でありながら、父親の農業大学校進学の薦めを蹴って上京、働きながら法政大学の夜間に通い卒業。その後、横浜に地盤を持つ衆議院議員、故小此木彦三朗氏の秘書となり、横浜市議会議員に当選。小選挙区制導入による分区により、小此木氏の地盤を一部、引き継ぐかたちで国政への進出を実現した。

それらの経緯、事情を、小此木氏の選挙区で育った私は、節目節目で知らされてきたが、一般の国民は知らないことばかりではないかと思う。正に、地方出身者の立身出世物語なのである。

自民党の議員の多くは、父や祖父の地盤を長年、引き継いできた2世、3世議員が多い。選挙区は地方であるが、育ったのは東京という者がほとんどである。もうすぐ退任する安倍総理は、東京生まれ、成蹊小学校から大学までエスカレータであがるだけの経歴である。選挙区山口のことは知らない都会育ちのお坊ちゃまである。

菅氏は、総裁選出馬表明に当たって、「長男だったが、農業をやりたくなかったから秋田を出た」とはっきり言っていた。今でもそれはなかなか許されることではないだろう。朝ドラで今、放映されている「エール」の主人公、古関裕而も家業の呉服店を継ぐはずだった長男である。音楽の道を選び、東京に出てきた経緯は、ドラマでは誇張されてはいたが、地方の長男の実像を示している。

そういうかたちで地方は、数多の優秀な人材を失ってきた。それが明治から大正、昭和と東京への一極集中が続く中で加速し、地方の活性化だ、創生だと声高に政治家が叫んでも進まない状況が続いて、今日に至っている。

菅氏は、地方創生を一つの政策の目玉にしようとしているようだが、地方創生の担い手は、東京の中央省庁の官僚ではない。財政的な手当をすれば、地方自治体は動きやすくなるというが、肝心の担い手、特に優秀な人材が地方を捨てている状況では、今日、一層強まっている地方消滅の流れは止められないだろう。

職業選択も居住も自由の国にあって、子供が東京に行くことを止められない社会状況をそのまま体現している菅氏ができることは、一体何なのだろう。私には想像がつかない。

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12年ぶりのクルマの買い換え [マイカー]

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6月頃から、愛車のNCロードスターのエアコンの調子が悪く、7月、まだ猛暑といえない時期に早々、点検と修理の見積もりをディーラーの依頼した。その結果は、コンプレッサーの故障、配管の亀裂、さらにはラジエター・ファンの故障だった。それを全て直すとなると、30数万円という見積もり。この2年ほどでダンパーのへたりが出てきていて、その交換をすることも考えていた矢先であった。

そうなると50万円はかかる。タイヤの減りも気になっていたので、それを追加すれば60万円を超える。さすが愛着のあるロードスターでもそこまでかけて乗り続けるかと思案した。自動車税も重量税も13年超の高年式車は増税となる。そうなると、やはり買い換えかと覚悟を決めた。

昨年デビューし、本年4月、コロナ渦のなかでワールドカーオブザイヤーを授賞するという快挙を挙げたMazda3に絞り検討、1.5L ツーリングというベースモデルに買い換えることにした。7月半ばに契約、昨日、納車された。

12年ぶりの新車であり、クルマの進化を実感したが、ライトやブレーキのコントロールすら手動ではなく、自動化されている。ライトはAutoで使い、エンジンを切るときもそのままにするのがデフォルトである。

パーキングブレーキに至っては、手で引き上げたり足で押し込むようなアナログではなく、電気的なEPBシステム。その二つをルーティンとして覚えることから始めたが、今日は、iPhoneをUSBでマツダコネクトにつなぎ、Car Play の動作を確認、USBメモリーの音楽データベース化も完了させた。

オプションで360度モニターもつけたが、その見方にも慣れなければならない。もはや駐車は、目視ではなく、液晶画面を見て行うものだからだ。

クルマのIoT化もここまで進んだのかと驚くばかり、ほぼアナログの操作だったロードスターが懐かしくなったが、兎にも角にも慣れなければならない。



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蟻の一穴 [日記]

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Nikon D850 Ai AF Nikkor 55mm AI AF Micro-Nikkor 60mm f2.8 D

これが禅譲というものなのだろう。出馬を表明している岸田、石破両氏は既に霞み始めている。現職官房長官の菅義偉氏に、党内世論は集約されつつあるからだ。党員選挙を省くという二階幹事長の鶴の一声がその流れを決定づけている。

コロナ渦に政治空白は許されないというが、安倍総理は次の総理が決まるまで職責を全うできる体制にある。大平総理や小渕総理などのように帰らぬ人になったわけではないのだ。危機管理のしっかりできている体制のもとにあるのだから、全党員に投票の権利行使を認める方法が真っ当な選択だ。

現在の野党の不甲斐なさからすれば、次の衆議院総選挙でも自民党が負けることはないだろう。しかし、蟻の一穴がないわけではない。今回、党員投票を認めなかったならば、ひとつ党幹部を懲らしめてやろうと考える党員、あるいは自民党の旧態依然とした体制を好ましいと思っていない無党派層は、少なからず出てくることだろう。それが蟻の一穴である。

総選挙が間近に迫っていることを考えると、目の前の楽な道ではなく、たとえ難路であっても将来の党勢拡大、特に新人の発掘などを見据えた道を辿っていくべきなのであろう。

因みに、写真はわが水戸の家の庭で咲き始めたサルスベリである。南関東では既に盛りを過ぎているが、北関東ではこれから。遠くから見ると夏の強い光にも負けない、鮮烈なサルスベリの花であるが、こうして接写するとあまり美しくはない。

安倍一強時代はまさに、サルスベリのように近くに寄ってみないと分からない、美しくない部分があったことだろう。政治はそういうものであるが、メディアの追求が弱かったこともあり、最後までその部分に覆い隠されていた安倍政権だった。

しかし、花の散り際は無残なものである。安倍一強を支えた菅氏が新しくきれいは花を咲かせることができるのか、それは「神のみぞ知る」である。

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