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合成の誤謬 [日記]

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RICOH GR

政策を実施するうえで常に意識すべきこととして、「合成の誤謬」というものがある。それは、罠とでもいえようか。基本は経済学の領域の理論であるが、要約すれば、「ミクロの視点でそれぞれ合理的な行動であっても、それらが合わさった結果、好ましくないマクロの結果がもたらされる」というものである。

日本におけるCOVID19の感染拡大では、人口10万人あたりの死亡者数が欧米の40分の1程度にもかかわらず、欧米での都市のロックダウンに近い、人と人の接触を極力避けるという対策がとられ、当初、国民がそれに忠実に従った。

人が病気にかからないように注意することはもちろん悪いことではない。現状のような世界的なパンディミックの起きているような事態でなければ、個々人それぞれが注意することで人との交流を基本とする社会生活は、十分に営むことができる。人は社会性をもつことで地球を支配する存在となったが、その進化の過程においては幾度も感染症に襲われてきた。しかしそれへの対策は、科学の知見が深まれば深まるほど、人の最大の長所たる社会性を否定するものへ傾いてきている。

人は進化の過程において、ウイルス感染により免疫機能を強化して生き残ってきたという研究もあるが、それは親から引き継いだ遺伝子の要素に加え、ウイルス感染などで外部から入り込んできた遺伝子の要素を体内に組み入れるということらしい。人との交流の中で、生物としての進化を遂げているということだ。

科学がまだウイルスの存在を認知していなかった時代では、犠牲者を出しながらも自らの拠り所である社会性を維持しながら、それを克服してきた。その結果が、現在の人なのである。

今般の感染拡大では、その全て忘れ去ってしまったかのごとく、疑心暗鬼で人が人を避ける事態が生じている。「大学での授業のオンライン化」「サラリーマンのリモートワーク」「昼も夜も会食回避」などは、感染症対策としてはいずれも合目的的であることに間違いはない。それらが正しいことだと疑いもなく行われてきたこの1年を振り返ると、どうやら人は、長年にわたり築き上げてきた経済社会を自ら崩壊させる過程に踏み込んでしまったようにも思える。

家にこもり画面を見ている存在といえば、ひきこもりがその代表例であり、これまでは解消しなければならない社会問題とされてきた。また、冬の間、働く者や学ぶ者が外に出ず家にこもれば、一住宅あたりの暖房費は格段に増えるが、それにより二酸化炭素の排出量も比例して増える。人の生存を脅かす地球環境の危機という、COVID19以前に声高に叫ばれていたことが配慮されないステイホームなのである。

現状、COVID19の感染拡大で、多くの人が雇用の場を失っている。しかし、こうした事態にも雇用が維持される人々も数多くいる。彼らは、当然のことながら消費を控え節約し貯蓄に励むことだろう。こうした行動は将来不安に起因するものであり、合目的的であるといえる。家計の貯蓄が増えるという効果は、政策を遂行するために政府が発行する国債、すなわち負の貯蓄と埋め合わされることになる。政府はそれにより民間部門に資金を戻しているわけである。

しかし、このような状況では、家計の消費はいつまでたっても増えない。それにより、企業の設備投資は抑制されたままである。その結果、民間における資金需要は増えず、家計と政府の間で資金の移動が起こるだけである。そうした家計と企業の需要減退は、さらなる企業の収益悪化を招き、雇用減少と家計の所得減少を引き起こす。その結果、家計は貯蓄の取り崩しを行うが、ゆうちょや民間金融機関に流れ込んでいた家計の資金が減少することで、国債市場では買い手不在の状況が生じる。国債金利は上昇し、政府の負担は増す。

これ以上、感染防止を続けると、政府が経済対策の充実を図ろうとしても、税収にも国債にも頼れず、予算は組めなくなる。昨年春に行われた国民一人当たり10万円の定額給付金のような対策は、どのような経済悪化となっても、もはや実施できないということなのだ。加えておそろしいことは、社会保障制度の維持が難しくなることである。政策の手詰まり感は強まり、現役世代も高齢者世代もともに共倒れとなる。

それがCOVID19における合成の誤謬なのである。国民が自分自身のためにだけではなく、大切な人や社会を守るためにと、国が国や自治体の指示に従い努めてきたことが、そうした事態を招くということを政府の分科会などでは議論されていないのだろうか。ワクチンの接種がなかなか進まない日本では、人と人と接触を避けるような対策ではなく、経済社会を回しながら集団免疫を形成させる戦略の方が有効なのではないだろうか。


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死者は冬に増える [日記]

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日本では、世界で類を見ないスピードで高齢化が進んでいるが、毎年130万人ほどの死亡者の月次データを見てみると以下のようになる。
2019年 (2020年9月発表の人口動態調査)
1月  140223人
2月  117312人
3月  118335人
4月  112790人
5月  110055人
6月  101290人
7月  105858人
8月  110466人
9月  106732人
10月  113147人
11月  118152人
12月  126733人
一目瞭然、1月と12月に他の月より死亡者が多くなる傾向がある。これはインフルエンザの感染による影響だけではなく、多くの高齢者が冬の寒さにより、寿命を終えていくということだ。
それなのに報道では、COVID19 による死亡者が急増していると、その点だけをクローズアップしている。
毎日新聞は、COVID19による死亡者が18日間で3,000人から4,000人になったと報じたが、これを書いた記者は、こうした基本的な統計を当たることなく、コロナ感染者の死亡という表層的なところだけを書いた。
これこそ、COVID19のリスクを強調した煽りだ。
COVID19のなかった2019年11月から12月には、ひと月で8,581人も死亡者が増えているが、人は何かで死ぬもの。それも冬に死んでいく。
COVID19の感染拡大で死亡者が増えているというより、寿命の来た人たちが順番に亡くなっていることだけだ。
因みに、COVID19による死亡者の85%は80才以上である。平仄は十分に合う。

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通勤電車はいまも満員 [日記]

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私は中学が東京港区の私立学校だったため、13歳の春から、当時の国鉄、いまはJR東日本の京浜東北線を利用して、横浜の鶴見から東京の浜松町まで通っていた。大学でも、就職先の経済団体にも、京浜東北線を利用して通った。

中学入学当時の編成は確か6両、それも今より短い車輌のものが朝夕多い時間帯で5分から10分おきに走っていた。それがいまや10両編成の電車が日に223本(鶴見を発つ本数)、通勤時間帯では最大1時間あたり19本ものダイヤが東京方面に向け組まれている。19本というと3分に1本の間隔である。

現在の車輌、E233系は1編成の乗車定員が1,582人である。この数字は、全員が座り、つり革をつかめる人数だ。もちろん朝夕の通勤時間帯には、それ以上の人が電車に乗り込む。

連日、首都圏のCOVID19、PCR検査陽性者数が増加しているという報道がなされ、緊急事態宣言も出ることになった。京浜東北線が通る東京、神奈川、埼玉数を合計してみると2,576名(1月6日)である。京浜東北線1列車で定員の1.6倍ほどの乗客の数と同じであり、その数字はラッシュ時の乗車率とほぼ同じであるから、たった1列車分の人数の陽性者が出たと騒いでいるわけである。死者かそのくらいなら、深刻な問題だが、PCR検査という精度の低い検査で陽性になった人数を数えて、感染爆発だと言っている。
京浜東北線の1週間の延べ乗車人数は3,149万人、1日あたりにすると約450万人だそうだが、これだけの者が東京を中心として埼玉、神奈川を行き来しているなかでの1列車分、それも死者ではなく検査の陽性者なのだから、驚くに値しない。 人口が10万人に満たない市町村は全国に1,454、そうした地方圏に住む人には想像もつかないだろうが、大量の人の移動を可能とする公共交通機関が首都圏にはあって、それを利用する人々の営みでこの国が成り立っている。 首都圏で増えた増えたと戦き、首都圏との行き来をなくそうとする気持ちもわからないではないが、この程度の陽性者数で経済社会活動を止めてしまえば、地方経済に特に多大な影響が及ぶことは明らかである。その覚悟はあるのだろうか。よく考えてほしい。 むしろ、京浜東北線1列車の乗車人数とほぼ同じ陽性者数に抑え込んでいるのは立派だと考えてもらえば、地方圏における事態への対処方法は自ずと見えてくる。世界的に見て、いまの日本の状況は緊急事態でも何でもないのである。 もちろん、東京にいながら、満員の通勤電車など乗らなくてもよい身分の政治家や感染症専門家にも、日々の通勤風景は実際に自身の目で見てほしい。おそらく彼らは、コロナ病棟の現場を見ていないはずだ。現場主義こそ、感染症対策の大原則ではないのかと、怒りを覚えるばかりである。

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良いことのない令和の時代 [日記]

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令和3年の正月、令和になって二度目の正月である。
個人的には、この1年と8カ月、新しい仕事を始めたり、初孫ができたりと、嬉しい出来事が続き、楽しい時間を過ごせているが、日本は令和になってから良いことがない。
改元のなった一昨年の5月には川﨑で、スクールバスを待つ児童、父兄が通り魔に殺傷されるという事件が起きたが、10月にも京都アニメーションの第1スタジオに男が侵入し、ガソリンをまいて放火、36人が死亡するという事件が起きた。いずれも不満の矛先を罪のない者に向ける事件だった。
自然災害もひどかった。9月、10月に台風被害が相次いだ。台風15号では、暴風により千葉県で大規模かつ長期の停電が発生、台風10号では土砂崩れなどで死者90名という犠牲者を出し、21号では各地の河川が氾濫した。加えて、世界文化遺産の沖縄・首里城が焼失する悲しい出来事もあった。
令和2年に入り、新型コロナウイルスによる感染拡大により4月、5月と「緊急事態宣言」が発出された。経済社会活動が止まり、小規模事業者や雇用者の苦境が深まるとともに、小中高校が長期間、休校になり、大学生に至っては未だに学校に通えない状況が続いている。10万人あたりの死亡者が欧米諸国に比べて圧倒的に少ないにもかかわらず、特に地方圏において集団ヒステリーの状態が起こり、感染者だけではなく、大都市圏で仕事、勉学に勤しむ同郷者の帰省を拒絶するといった、差別、誹謗中傷までが起きている。それはひとえに、国、地方の政治のリダーシップ不在に原因がある。具体的にいえば、感染症専門家や医師会幹部の声に引っ張られ、経済社会活動と感染防止の適切なバランスをとることができず、また人権問題への対応も全くできていないからだ。これでは国民の不満は、多様なかたちで高まるばかりだ。
三密を避けなければならない状況のなかで、大規模な自然災害は2年連続で発生、7月に九州各地が豪雨災害の被害に見舞われた。もし人口密集の大都市で震災などが起きたら、避難所の開設、運営はどうするのか、想像するだけでも恐ろしい。自然災害を「想定外の事態」と片付け続けてきた国、地方の行政の不作為は看過できない。
結局のところ、このような政治行政の体制では、自然災害も新型コロナウイルス感染拡大もなるようにしかならない。国民は、いわば自分自身の運の強さに頼るほかない。それは誠に不幸なことである。
もちろんこうした非常事態での混乱を招いたのは国民の側にも責任がある。国政選挙の投票率は年々低下、5割近くの有権者が棄権している。行政に対する監視もほとんど行われてない。それによって非常事態への備えや対応が何度も失敗するのだ。
一見、不可抗力と思える事態にも政治や行政の対応次第で国民の心は安定するものだが、令和の時代に入ってから全てにおいて逆の目が出ていることは、現在の政治行政の対応能力が限界となり、早急にリセットしなければならなくなっている証左なのかもしれない。コロナ渦であっても、失業も給与カットもない政治家、行政職員の無作為は、この先、何度も悪夢といえる事態を招くばかりである
そのようなことを考える令和3年の正月である。

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