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写真日乗2017/02/17~バッハと近松門左衛門~ [日記]

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撮影:2017/02/17 於:東京・国立劇場
Leica Q Summilux 28mm f1.7

江戸時代に活躍した人形浄瑠璃の作者、近松門左衛門(1653-1724)。日本のシャークスピアと呼ばれているが、私は、同世代(1685-1750年)のヨハン・セバスチャン・バッハと比べてしまう。かたや大阪の浄瑠璃作家、かたや音楽の父ではあるが、耳を閉じて両者の作品を聴いていると、比べてしまうのである。

例えば、バッハのヨハネ、マタイの受難曲は、宗教曲の形式でありながら、人の根源的な感情である哀しみを見事に表している。そして近松は、市井の人々が、平穏な日常から、次第に悲劇に至る道を歩み始める哀しみを表すことに成功している。近松の作品で犯罪が起きても、どうしてこの人間がそこまでのことをしてしまったのか、よくわからないままに納得させられてしまうのだ。バッハも近松も、全てが理解できないまでも、そこに居合わせた者たちが共感できる感情の吐露を促すのである。これは不思議な体験である。
2月の国立劇場は、開場50周年記念として、近松の3作品をが上演されたわけだが(平家女護島、曽根崎心中、冥途の飛脚の3作品)、私は第三部を聴いた。今回は、「淡路町の段」「封印切の段」「道行相合かご」である。この「道行」の後が、歌舞伎でも良くかかる「新口村」であり、私は、1月の大阪松竹座ににて、仁左衛門の忠兵衛と孫右衛門の二役、孝太郎の梅川で観ているので、理解は容易だった。
しかし、「道行」にはやられた。公金を横領して逃げている飛脚屋の養子・忠兵衛と、その金で身請けされた遊女梅川が、忠兵衛のふるさとに逃げる道行である。歌舞伎でも舞踊としてかかる段らしいが、私は観たことがない。しかし、この「道行」は、いかに名優でも歌舞伎では、なかなかうまくいかないと思う。雨から霙、雪に変わる初冬の道を行く二体の人形は、人間以上の情感を持つ。「やられたなあ」のひと言だった。
「封印切」も私は歌舞伎で観たことのない。「封印切」と「道行」「新口村」の組み合わせで、歌舞伎を観てみたいと強く感じた。もちろん、仁左衛門、孝太郎親子で。ならば、「道行」もうまくいくのではないか。


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