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2017/07 短歌作品「水戸」 [短歌]

 「いろいろと、とられたりして…」「出店は難しい…」とは業界人の言

 その地より東京都心に通うたび脂汗かく日々の懐かし

 平日の朝はまともに動かざる電車は今朝も抑止ばかりか

 駅前にパチスロ、ソープ、キャバクラの並ぶ街捨て何処か選ぶ

 特急のひたちに乗れば上野発ち次は水戸なり水戸へと急ぐ

 特急は優先されて遅れにも最高速度で回復はかる

 平成も終焉迎え国労も動労もまた死語となりゆく

 ひろびろと青田のつづく西側の車窓まぶしくふたり眺める

 雨降らぬこの六月のときわ路の耕されるべき土の黒さぞ

 風致地区ひろく指定されておりいかがわしきもの排除たやすし

 バイパスに近く平坦、遊技場ところどころに建つ条件は

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撮影:2017/07/08 於:水戸市・偕楽園公園
SONY RX100Ⅲ


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結社誌「短歌人」寄稿 [短歌]

土着的都市人として

九百号に本田稜が、「都市詠の地平」と題する評論を寄せた。都市のさまざま姿が戦後、詠われてきたことが俯瞰できる。      
私は、東京の下町で遊び学んで、その都心で職を得て働いてきたので、東京での所作しか知らない。引かれている四十首以上の過半は、東京で詠われたものだろうが、その根拠をつかめる歌はそれほど多くない。もう誰も見たことのない、過去、栄えた都市を描いているようにも思える。写真や絵画であれば、その情報量の多さ、空気感などから場所は推測できる。しかし短歌となると、ノイズやダストをまとうためか、むしろ今日に近づくほど、架空の場所のように思え、その特定は困難になる。それでも読み手の共感が得られ成立するのが、都市詠というものなのだろう。
歴史を先導するのは、都市である。と同時に、歴史に区切りを付けるのも、都市である。引かれた作品を読みつつ、都市詠のなかで秀歌と評されるのは、輻湊する現実を史実として残すための、句読点として機能する作品だと思った。
本田は、冒頭、日本の総人口の推移に言及しているが、近代化と人口増加は、都市化を必然のものとする。そして、そこに集まる者たちに、新しく、不可思議な所作を求める。歌人は、そこに着目しているわけだが、他の短歌のジャンル、例えば自然詠などと比べると、詠う者のこころの画角は狭い。一点を見つめ、対象のみを浮き立たせようとする。写真でいえば、被写界深度の狭いレンズを開放で使った時のように、対象以外は合焦しておらず、周辺減光の効果もあって、まるでトンネルの中から都市を覗き込む感じである。
加えて、いずれの歌からも、何かを見つめることで孤独感を増幅させる歌人の姿が浮かび上がってくる。詠っては、自己をどこかに押し込むことで、ようやく安息を得る。都市に住まう者の生き延びる一手段として、短歌を選び、それぞれのメソッドを確立する歌人の姿である。
これだけコミュニケーションのツール、技術が発達しても、一所に集まらなければならない人間の性をえぐり出し、描き切る都市詠をこれからも読みたい。

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撮影:2017/07/09 於:横浜市・鶴見
Leica M10 Summilux 50mm f1.4 ASPH.


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